鹿児島城は今も残る石垣には西南戦争の弾痕が

慶長6年(1601)、島津家久に築城された鹿児島城。しかし、家久とその父・義弘の間には築城にあたって意見の対立があった。度重なる戦で藩の財政状況が逼迫していたこと。築城予定地が海岸に近く、防御の面で相当の問題があること。これらを理由に義弘は、清水城を改修利用すべきと築城に反対していたとされる。

父の反対を押し切り城山の麓に築城された鹿児島城は、本丸と二の丸を並べただけの非常に簡素な縄張で、天守も櫓もなかった。72万石の大大名の城とは思えないほどに質素な造りは、家久の言葉「城をもって城とせず、人をもって城となす」が端的に物語っている。天守が存在しないのは財政的な理由のほか、徳川幕府に対する恭順の意を示す狙いがあったようだ。

鹿児島城を居城とした島津家はロ代続いて廃藩置県を迎えた。本丸の藩庁、居館などは明治6年(1873)の大火で焼失後建て替えられることはなかった。また、二の丸の居館や庭園も西南戦争で炎上してしまい、現在は石垣だけ残る。

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