熊本城は築城名人の加藤清正によって造営

熊本城の前身は、鹿子木氏が茶臼山に築城した隈本城で、現在見られる黒板の壁が印象的な熊本城(別名:銀杏城)は、加藤清正によって築かれたものである。慶長6年(1601)に着工、慶長12年(1607)に完成した。加藤清正は城の完成の4年後に没し、忠広が継ぐ。しかし、寛永9年(1632)に忠広は改易となり、替わって小倉から細川忠利が入城し、明治まで細川家は11代城主を勤め上げた。

熊本城の真価を天下に知らしめたのは、築城から270年もたった明治10年(1877)の西南戦争のときであった。西郷隆盛に率いられた西郷軍が、明治政府に対して蜂起し、約4000名の政府軍の将兵が守る熊本城を攻撃した。

政府軍の将兵は懸命に防備し、簡単に落とせるだろうとたかをくくっていた西郷軍は、城に容易に近づくことさえできなかった。この戦いの中、西郷は「清正公と戦をしているようだ」と言ったといわれている。落城はしなかったが、西郷軍の攻撃の前に、城内で謎の出火があり、大小天守、本丸御殿など多くを焼失した。

熊本城の観光の見所

見所① 清正流石垣
石垣は下部は勾配が緩やかなので、何となく登れるような気がするが、途中まで登って上を見上げると、石垣が覆いかぶさってくるような錯党を覚えるという。これこそ清正流石垣である。城内には高さの違う石垣がいくつもあり、それぞれに勾配が違うことを確かめてみるのも楽しい作業である。

見所② 大天守小天守
昭和35年(1960)の外観復元。西面から石垣を見ると、大天守の石垣は勾配が緩く、小天守の石垣は急で技術的に新しい。このことから、当初は大天守のみで、その後、石垣を積み増して小天守を建てたと推測されている。また、大天守から小天守側を見ると、小天守が西にずれていることがわかる。これは大天守からの北面の眺望を大切にした結果ではないかとされている。

見所③ 宇土櫓
三層五階。現存する11の櫓のひとつ。第三の天守ともいわれ、ほかの城では天守級の大きさである。破風が直線を生かした造りで、一種幾何学的でさえある。

見所④ 空堀と水堀
熊本城の堀は空堀が多く、水堀は備前堀だけである。水堀が少ないのは、空堀は背のまま残り、水堀は埋められたことによる。
備前堀…本丸と出丸の間にある水堀。
本丸の空掘…熊本城には普から残る空堀が多く見られる。

見所⑤ 地下通路
本丸御殿に入るための地下通路は、闇り通路と呼ばれる。御殿は2つの石垣を跨ぐように造られたので、通路を地下につくる必要があった。ここが御殿への正式な入口である。
闇り通路…石垣の上に梁が掛けられ、そこに柱が建てられている。

見所⑥ 本丸御殿の昭君の間
本丸御殿にある最も重要な部屋である。壁や天井は、絢爛の絵が描かれている。

見所⑦ 長塀
坪井川沿いに続く長塀は、約242メートル。瓦と黒の下見板に挟まれた白壁が美しい対比を見せる。桜の名所でもある。

見所⑧ 成亥櫓
西出丸の西北(成亥の方角)にある隅櫓、木造で二層三階。平成15年8月に復元された。

見所⑨ 源之進櫓
普段は武器・武具の倉庫として使われていた。外壁は狭間、石落としが備えられている。

見所⑩ 不開門
城の北東にある門。北東は鬼門で、この方角は塞いでも、開放してもいけないとされ、扉が閉ざされた。

横手五郎の「首掛石」

本丸の西側、平左衛門丸に首樹石といわれる凹形の石がある。数人がかりでも運べなかったこの石を、横手の五郎は首に掛けて運んだといわれる。五郎が城造りを手伝ったのは、加藤清正と一騎打ちを行い戦死した父親の仇を討つために城に入り込むことだった。
だが五郎は取り押さえられ、井戸に投げ込まれる。上から石を次々と落とされたが、五郎はそれを受け止めては足元に置き、どんどん上ってくる。そこで砂が落とされ、生き埋めにされたという伝説が残されている。

熊本城の石垣の当時最高技術の結晶

熊本城は、茶臼山の全域を利用した梯郭式縄張を持ち、大天守、小天守、櫓49、櫓門18、城門29を備える。現在の大小天守は、昭和35年(1960)の外観復元である。天守の形式は、大天守に小天守が接続された連結式である。西面から見ると、13メートルの石垣の上に30メートルの大天守がそびえる。

熊本城の見所の、高石垣はぜひ鑑賞したい。高低を巧みに利用して曲輪を配置し、主要な曲輪は、高さ10数メートルを超える高石垣、中には空堀から30メートルもの高石垣で防備され、見るものを圧倒する。扇の勾配という、上に行くほど勾配が急になる清正流石垣である。茶臼山は、阿蘇山の火山灰が積み重なった脆弱な地盤のため、巨大な建造物をのせるのなら、強固な石垣を積んで、足元をしっかり固めなければならなかった。熊本城の石垣が豪壮で、安定感のあるのはこのためである。石は表に見えるものだけでも、15万個以上とされている。

築城当時は49あった櫓は、わずか11しか現存していない。しかし、熊本城の櫓の中には、ほかの城の天守ほどの大きさと風格を備えているものがあり、櫓を鑑賞するのも一興。とりわけ宇土櫓(うどやぐら)は三層五階の堂々とした姿で、直線的な破風が大守やほかの櫓とは違う趣で美しい。

熊本城にある展示と復元されたもの

西南戦争では、西郷隆麻率いる西郷軍と、城を鎮台とする政府軍の間ですさまじい戦いが繰り広げられた。その戦いの時についた傷が今も石垣に残り、大天守内にある熊本博物館天守閣分館には、西南戦争関連の展示がされ、発掘された大砲の弾などが見られる。熊本城内を巡り、西南戦争の跡もぜひ探してみたい。

その西南戦争で失われた本丸御殿はかつての工法を再現し、平成20年(2008)工事が完了し、当時の姿が忠実に復元された。土壁塗りで日地は白漆喰、本瓦葺きで、昭君の間、大広間、茶室、大御台所、縁側を配した風格のある御殿である。昭君の間は御殿の中でも格式の高い場所とされ、豊臣秀頼を迎えるための部屋ともいわれる,書院造りで、壁、襖などに、匈奴(きょうど)に嫁がされた前漢の美女、王昭君の絢爛な絵が描かれている。

熊本城煮ある横手五郎の「首掛石」

本丸の西側、平左衛門丸に首掛石といわれる凹形の石がある。数人がかりでも運べなかったこの石を、横手の五郎は首に掛けて運んだといわれる。五郎が城造りを手伝ったのは、加藤清正と―騎打ちを行い戦死した父親の仇を討つために城に入り込むことだった。

だが五郎は取り押さえられ、井戸に投げ込まれる。上から石を次々と落とされたが、五郎はそれを受け止めては足元に置き、どんどん上ってくる。そこで砂が落とされ、生き埋めにされたという伝説が残されている。

不思議な模様の地図石の秘密

打込接という方法で箱型に99個の切石が組まれた場所がある。組み合わせた境界が地図のように見えるため、「地図石」と呼ばれる。その模様は熊本城の縄張を表すとも、日本地図に見えるとも、城下町の地図ともいわれてきた。

実はこの空間は古地図には「御待合」と記されている。来客者を遊興の場である数奇屋瓦へ案内するための待合所として利用されたようで、人の目を楽しませるために石垣と敷石をきれいに組んだものとみられる。

熊本城の豆知識

①加藤清正は「城内の銀杏が天守と同じ高さになったとき、異変が起きるjと予言。予言通り西南戦争が勃発したという。

②熊本城全域98ヘクタールを対象に、往時の姿に復元する整備事業が平成29年(2017)まで、進められている。

③宮本武蔵は、寛永17年(1640)、熊本藩主細川忠利の招きで客分となり、『兵法三十五箇条H五輪書』を著わした。

④底の断面がV字型の堀を薬研堀というが、西出丸にある薬研堀はやや埋もれて、形が変わっている。

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