松江城

松江城は山城を嫌い新築されるもその造りは実戦を重視

「関ヶ原の戦い」での勲功により出雲・壱岐但万石を与えられた堀尾吉晴は、月山富田城に入城する。しかし、山城であった月山富田城は守るには適していたものの、泰平の世に藩政を取り仕切るには不向きであった。そこで船による交通の便に優れた、宍道湖近くの亀田山に新たに築城された平山城が松江城である。

完成したのは吉晴の孫・忠晴の代で、亀田山山頂を本丸にして、南へ二の丸を階段状に配置、堀を挟んで三の丸が連なる。全体は宍道湖の水を引いた水堀に固まれ、本丸の周囲には多聞櫓や腰曲輪が配置されていた。

本丸に築かれた本瓦葺き、五重六階の望楼型天守は現存し、付櫓とともに重要文化財に指定されている。天守には石落としゃ鉄砲狭間が数多く設けられているのが特徴で、実戦的な城である。堀尾氏が3代続いたあとには京極氏が入るも、後継ぎがおらず1代で改易となり、松平氏が入城する。以後、日代に渡って松平氏が世襲し、明治を迎えた。

文化財保護運動の先駆けになる

松江城は明治に入ると民間に払い下げられ、城内の建物は次々と取り壊されていく。天守も180円で落札されたたが、これを聞いた出東村の豪農・勝部本右衛門と、旧松江藩士・高城権八らは、天守の保存運動こ立ち上がったのである。彼らは資金を調達して天守を買い戻し、天守の解体は中止、保存された。その後、松平氏の末音が城一帯を買ぃ取り、昭和に入って松江市に寄付され現在に至っている。

松江城の豆知識

松平氏7代・治郷(不昧)は産業振興や新田開発を行い、藩の財政を建て直した名君として知られている。また、茶人大名としても知られ、石州流不昧派の祖として松江にお茶文化を築いた。

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