名護屋城

名護屋城は豊臣秀吉によって造られた大陸侵攻の拠点となった城

文禄・慶長の役に際して、朝鮮出兵の拠点として築かれたのが名護屋城だ。玄界灘を一望する波戸岬の丘陵にそびえ立つこの城は、げ万平方mもの面積を誇る巨城で、当時としては大阪城に次ぐ規模であった。名護屋城建造は天正四年(1591)にはじまり、諸大名による割普請によってわずか数カ月あまりで完成した。しかし2度に渡る朝鮮出兵の失敗、秀吉の死も相まって慶長3年(1598)、諸大名の陣屋が構築され10万人を超える人々が集ったと言われた名護屋城はその役目を終えることとなる。

江戸時代に入り解体された名護屋城だが、現在は城跡と幻カ所の陣跡が国の特別史蹟に指定されている。

名護屋城の山リサイクル

その役目を終え解体された名護屋城だが、のちに初代唐津藩主・寺沢広高がその廃材を利用し唐津城を築城したといわれる。唐津城本丸跡より名護屋城の瓦片と同じ文様のものが見つかり、その通説の裏付けと期待される。

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