小田原城は軍事的要所に築かれた難攻不落の巨大堅城

相模湾を望む高台にそびえる小田原城は、応永23年(1416)の「上杉禅秀の乱」をきっかけに小田原へ進出した、大森氏によって築城されたのがはじまりといわれている。しかし、鎌倉時代から南北朝時代にかけてこの地を治めていた、上肥一族。小早川氏の館が起源という説もあり、確かなことは分かっていない。ただ、15世紀中頃には、大森氏の居城があったのは間違いないようである。

1500年頃には北条氏の祖として知られる伊勢新九郎(北条早亜じが大森氏を減ばし、小田原城へ入城する。以降、北条氏4代、氏綱、氏康、氏政、氏直の手によって引き継がれ、100年近くに渡り、石高250万石ともいわれる北条氏の拠点として繁栄をほこった。

この間、関東の覇権を争う上杉謙信、武田信玄らに相次いで攻められるが、堅国に築かれた小田原城はこれを退ける。だが、天正18年(1590)に羽柴秀古の大軍に攻められ、あえなく開城した。江戸時代には徳川家の譜代大名である大久保氏、稲葉氏の居城となり、関東地方防衛の要所として役割を果たす。

小田原城は後北条氏5代の手によって日本最大の中世城郭が誕生

現在の小田原城跡はJR小田原駅からやや離れた場所に位置するが、戦国時代には駅周辺も小田原城の敷地内であった。

大森氏より小田原を奪った北条氏は、2代氏綱より本格的な中世城郭の造営をはじめ、豊臣秀吉との合戦の頃には、城を取り囲む堀と土塁の総延長が9kmとも12kmともいわれる大城郭が築きあげられる。上杉謙信率いる10万の軍勢を退け、20万人を超える秀吉軍を前にしても、3ヵ月以上持ちこたえたというから、その堅城ぶりは際立っている。

江戸時代に入って大久保忠世が城主になると、規模は三の丸内に縮小される。その後、稲葉正勝城主時代に大改修され、近世城郭ヘと生まれ変わった。戦国時代には小峰山のほうにあったとされる天守が、今の位置に移されたのもこの時である。

天守は元禄16年(1703)に発生した大地震で倒壊、焼失するも、宝永3年(1706)に再建され、幕末まで小田原のシンボルとして存続する。明治に入り一度解体されてしまうが、昭和35年(1960)に市制20年の復興事業として再建された。城の内部は刀や古文書など、歴史資料の展示室となっている。また、標高約60mの最上階からの眺望は絶景であり、寛永H年(1634)に、3代将軍徳川家光が天守に登って展望を楽しんだという逸話もうなずける。

小田原城の見所

小田原城の見所①天守①天守
昭和35年(1960)に宝永時代の設計図を基に復元された天守。三重四階で付櫓、渡櫓を備えた複合式天守となっている。

小田原城の見所②隅櫓②隅櫓
二の丸にある隅櫓は関東大震災で崩落し、昭和9年(1934)に建て直したもの。往時のものとは外見は異なる。

小田原城の見所③銅門③銅門
二の丸の表門。大扉の飾り金具に銅を使っていたため「銅門」と呼ばれ、る。平成9年(1997)に建築当時の工法で再現された。

小田原城の見所④馬出門④馬出門
平成21年(2009)に馬出門を史料を基に当時の工法で再現。手前には馬出門土橋(めがね橋)が掛けられている。

小田原城の観光ガイド

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小田原城へのアクセス

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小田原城を落とした北条早雲の知略

小田原城の見所⑤北条早雲北条早雲による小田原城攻めは、歴史に残る知略によって成されたものだ。小田原城を攻略しようと考えた早雲は、当時の城主・大森藤頼に鹿狩りのための勢子(狩猟を手伝う人)を領内に入れる許可を得る。早雲はこれに乗じて、勢子に仕立てた足軽と1000頭の牛を藤頼領へ送り込むことに成功した。さらに、早雲は牛の角に松明を付けて放ち混乱を誘い、慌てふためいて逃げ惑う藤頼勢を一気に蹴散らしたという。

小田原城の歴史

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小田原城の豆知識

①小田原城跡は現在「小田原域社公園」として整備され遊園地や動物園、美術館などが造られている。動物園には日本最高齢のゾウ、ウメ子がおり人気を博したが、平成21 年(2009)9 月に亡くなった。

②小田原域社公園では昭和9年(1934)の隅櫓を皮切りに、天守、常盤木門、住吉橋、析形、銅門、馬出門が復元された。 現在も史蹟整備が続けられており、いず、れ往時の全容を取り戻すかもしれない。

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