大阪城

大阪城は地の利に恵まれた城だった

大阪城が立地するのは、大阪湾に面した上町台地の北端で、この台地は北、東、西が淀川、旧大和川などの河川や湿地に囲まれた天然の要塞である。
また、商工業や政治文化の中心である奈良、堺、京都に近く、河川や大阪湾を利用した海運による貿易のための港を聞くことができた。

大阪城築城以前は有利な立地条件のためか、古代には難波宮(なにわみや)、中世には石山本願寺と寺内町が造営されて繁栄した。この魅力的な地に目をつけたのが織田信長であった。10年以上もの攻防の果てに、天正8年(1580)、石山本願寺は明け波しを一受け入れた。天下人を目指す信長は築城を開始したが、天正10年(1582)、本能寺の変で野望は消えた。

信長の後継として躍り出た豊臣秀吉は、天正11年(1583)築城を開始。数期の工期を経て、秀吉死後の慶長4年(1599)頃に完成した。秀吉死後に秀頼が城主となるが、関ヶ原の戦い、冬の陣、夏の陣を経て大阪城は落城した。

夏の陣の後、大坂の地は松平忠明に下されたが、元和5年(1619)、大坂は幕府の直轄領となった。2代将軍秀忠の命で、翌年正月から大阪城の再築工事が始まり、3代将軍家光のときに完成。徳川幕府は豊臣の時代の終わりを示すために、大阪城に残る豊臣の痕跡を完全につぶした。現在見られる遺構は、ほとんど徳川時代のものである。

大阪城の壮麗な大天守と石垣

大阪城は本丸を二の丸、三の丸が囲む輪郭式の巨大な平城で、築城技術の完成期に造営された。現在の天守は外観復元の五層、内部はコンクリート造りの八階。四層目までの壁は白漆喰仕上げで、最上層の壁には金箔で虎、鶴の絵が描かれ、豊臣時代の天守を再現している。屋根は銅瓦葺き、軒先の九瓦、平瓦は金箔瓦である。金箔の絵、青味を帯びた緑色の屋根と、軒先瓦の金箔の対比が典雅で美しい。

高層ビルがなく、沖の埋め立てが進んでいなかった豊臣、徳川時代当時、大城湾に入ってきた船、淀川を行き来する船からは、圧倒的な迫力を持って天守が日に飛び込んできたことだろう。

石垣を積み上げる技術は最高に達し、堀と城壁の石垣は規模が大きい。石材は京都の加茂、兵庫県の六甲、瀬戸内海の島々から運ばれた。瀬戸内の石は良質の花崗岩で、多くの石が海路で運ばれた。本丸内堀、二の丸の南面と西面の石垣は、水面から約20メートルもの高さを誇り、屏風のように折れ曲る屏風折りという横矢掛けや、向かい合わせに突出部を設けた合横矢など、防御の技巧が凝らされた石垣が続く。打込接(うちこみはぎ)という工法で積み上げ、角は強度を確保した算木積みである。

また、桜門枡形の蛸石や、大手口枡形の巨石など、とにかく巨石がふんだんに使われているのも大阪城の特徴で、当時の石垣加工技術が高いレベルにあったことを実感するのも大阪城めぐりの醍醐味であろう。

二百数十年という長い歴史を持つ大阪城には、ゆかりの人物の史跡も多く残る。

例えば、夏の陣で秀頼、淀殿が逃げ込んだ山里曲輪(やまざとくるわ)、曲輪に建立されている自刃の地碑、城内ではないが、東軍に大打撃を与えて奮闘した真田幸村の戦死跡之碑が建つ安居神社などを訪ねるのもよいだろう。

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