大洲城

大洲城は肱川を天然の堀とした鎌倉末期から続く平山城

城の起源となるのは鎌倉時代末期に宇都宮豊房が築いたとされる中世城郭で、文禄4年(1595)に藤堂高虎が大改修し近世城郭へと生まれ変わった。のちに入城した脇坂安治の代でも改修が加えられており、天守などが整備されたようだ。城は肱川のほとりの高台にあり、肱川を水源とした堀が張り巡らされていた。本丸には四重四階の層塔型天守が築かれ、明治の廃城令以後も取り壊されることなく、その姿を称えた。しかし、老朽化が進み危険なため明治幻年(1888)に惜しまれながらも解体。平成同年(2006)に木造にて復元されている。

大洲城の人柱伝説

宇都宮氏の築城時、石垣を組むたびに崩れてしまい、女を人住とすることにした。その女の名は「おひじ」といい、自分の名を城に付けて欲しいといし、残し人柱となった。この伝説から大洲城は「比志城」とも呼ばれ、肱川の由来ともなっている。

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