篠山城

篠山城は名だたる大名を召集し天下普請で築いた名城

徳川家康が諸大名の力を削ぐために、築城などの土木工事を行わせた「天下普請」。篠山城も天下普請で作られた城だが、戦国末期に作られた城ゆえに、近世城郭の特徴が色濃く表れる。城は幅広で方形の水堀に閉まれ、二の丸、本丸も内堀と高石垣で固められている。また各虎口には馬出が設けられて、防御をより堅牢なものにした。天守は作られなかったが、天守台は作られており、現在も姿を留めている。

築城は慶長U年(1609)、大阪城に立てこもる、豊臣氏への備えとして急造された。縄張は藤堂高虎、普請総奉行は池田輝政が担い、日ヵ国初名の大名が動員された大規模な普請であった。約200日という短期間ながら、完成度の高さには目を見晴らされる。最初の城主は松平康童、その後藤井松平氏、形原松平氏、青山氏と城主を変える。

明治時代に入り、大書院を残して建物は全て取り払われるが、外堀、内堀に馬出などの縄張はそのまま残されている。また唯一残された大書院も昭和四年(1944)に焼失し、平成に入り復元された。

篠山城の豆知識

篠山城に残る天守台。これは築城当初から存在していたが、天守自体は建てられなかった。これは想像以上に堅固な城となったため、豊臣氏を刺激せぬよう徳川家康が「あえて作らせなかった」と伝えられる。

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