美しい城を造る「黒田孝高」

築城名人といえば加藤清正、藤堂高虎、この二人については誰もが異論を挟む余地はないだろう。しかし、もう一人上げるとなるとどうだろうか。

江戸城や川越城を築いた太田道灌は関東で人気があり、旧武蔵国あたりで築城者がよく分からない城は、ほとんど太田道灌作にされている。また、武田二十四将の一人に数えられる馬場偉殺(儲粛)も、円形の縄張を持つ田中城など独特のスタイルを持つ城を造った。キリシタン大名として名高い高山右近は、前田利家に客将として加賀に招かれ、金沢城、高岡城の築城に携わっている。また、小峰城を造った丹羽長重を上げる人もいるだろう。

しかし、ここではあえて黒田孝高をとりあげる。残念ながら黒田孝高が築いた城がほとんど残っていないため築城名人というイメージはないのだろう。黒田孝高は天文15年(1549)、播磨姫路に生まれる。一説によると父が姫路城代であったため、姫路城内で誕生したという。その後、父の後を継ぎ姫路城代となり、秀吉が中国平定の時に主小寺政識を見限り、秀吉の下へと走る。この時、秀吉に姫路城を差し出したのだ。秀吉はその後の中国平定の拠点として姫路城を利用した。また、この戦いにおける水攻めや兵糧攻めといった歴史に残る攻城戦は、孝一局の発案だと伝わる。これらの作戦はいずれも大成功を収め、織田信長の横死がなければ、中国は平定できていただろう。

こうした経験を活かした孝高の城は、中津城にしろ、福岡城(息子長政の時代になってからの築城)にしろ、近くの海や川を巧みに縄張に取り込んでいる。中津城は山国川を堀として利用し、周防灘に広がる三角州に築いた三角形の城である。福岡城もやはり博多湾に面した城下町を持つなど海に近い場所を選んんだ。

このほか、ル耐各議屋ゃ城の総奉行を務めた。さらに広島城、高松城の縄張も孝高の手によるものといわれ、いずれも特徴として海に近い立地という共通点が挙げられる。

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