宝船の七福神の席順

江戸時代に、一月二日の夜に見る夢を初夢とする習俗が広がった。
そして、「初夢を見る日には枕の下に七福神の宝船の絵を敷くと良い」という俗説が生まれた。

江戸の町では、木版印刷の宝船を売り歩く者の姿が目立った。このことによって私たちは七福神といえば、七柱の神様が「寶(たから)(宝)」と書いた帆を上げた宝船に乗った図を思い浮かべるようになった。

宝船の帆に「寶」の他に、悪い夢を良い夢に変えるとされる「貘(ばく)」の字が書かれることもある。七福神の中で大黒天、恵比寿様の人気が高く、弁財天がそれに次ぐ。そのため宝船には、前列中央に弁財天を配して、その左右に大黒様、恵比寿様を座らせるものが多い。昆沙門天、布袋尊、福禄寿、寿老人は後列に並べられる。弁財天という美女を最も目立つところに描くと、絵が華やかになると考えられたためである。

徳川家康が狩野派の画家に描かせたことをきっかけに、宝船に乗った七福神の図が広まったともいわれる。しかし京都の禅寺では、室町時代後半から宝船に乗った七福神の絵が描かれていた。七福神信仰が広まってまもなく、「七福神が船に乗って訪れてくる」といわれるようになったのである。

海の果ての常世国から来る神

宝船の図に、次のような五七五七七の和歌に似せた回文が書かれていることが多い。回文とは、上から読んでも下から読んでも、同じになる文章である。「なかきよの、とをのねふりの、みなめざめ、なみのりふねの、をとのよきかな(長き夜の遠の眠りの皆目覚め浪乗り船の音の良きかな)」
これは、聖徳太子の和歌と伝えられる。この和歌は、七福神の船が波の上をやって来て幸福を授けるありさまを詠んだものである。

古代の日本人は、「幸福が海の果てから来る」という考えをもっていた。『古事記』などには、常世国という海の果ての神々が住む世界が出てくる。

常世国から来た神様が人びとに有益な知識を授けてくれるとも、亡くなった人間は霊魂となって常世国に行って永遠に生きるとも言われた。

『古事記』などに、事代主命が皇室の先祖に地上の支配権を譲ったあと、船に乗って海の彼方に行ったとする物語がある。のちに事代主命は常世国から、人びとの住む世界を訪れて助けてくれる恵比寿神になったといわれた。

七福神が宝船で海の果ての神々の世界から来るとする発想は、このような伝説を踏まえて作られたものであろう。