大黒天と恵比寿様をならべて祭る

戦国時代に、大黒天と恵比寿様をならべて祭る習俗が京都で起こり、各地に広がった。この時期に商工民の間で大黒天と恵比寿様が特別に御利益のある福の神だとする考えが普及したことによるものである。

室町時代なかば頃までは恵比寿様を祭る集団と、大黒天を祭る集団が別にいた。しかし室町時代末頃から大黒天と恵比寿様は仲の良い神様だといわれるようになり、大黒、恵比寿の二柱の神様を祭る家も出てきたのである。そして戦国時代に大黒天信仰の急速な拡大が起こった。戦国時代の世相を記した天文二一年(一五五二)成立の『塵塚物語』に、次のような記述がある。

「大黒。恵比寿を対にして、木像を刻んだり、絵に描いたりして安置する家が多くみられる」このような形の大黒、恵比寿をまとめて信仰する習俗が広まる中で、恵比寿様が大黒天の子とされるようになったのである。

恵比寿と大国主命の血縁関係

後で述べるように神仏習合の考えから、室町時代以前にインド生まれの大黒天が大国主命とされるようになっていた。さらに『古事記』などでは事代主命は、大国主命の子神の一つとされていた。

しかし前に述べたように私はまず水蛭子(蛭子命)が恵比寿様とされ、そのあとで事代主命も恵比寿様となったと考えている。『日本書紀』は大国主命を素喪鳴尊の子とするが、『古事記』は大国主命を素喪鳴尊の六世孫(曾孫の曾孫)とする。

つまり『日本書紀』によれば水蛭子の恵比寿様は大黒様の伯父(もしくは伯母)、『古事記』では水蛭子は大国主命の六代前の先祖の兄(姉)となる。しかし恵比寿様を信仰する者の多くはそのような細かいことは気にせず、水蛭子(蛭子命)の恵比寿様を大黒様の子とした。つまり恵比寿信仰の広まりの中で、どちらも海から訪れた神様とされた蛭子命と事代主命が混清していったのである。