弘前城

築城400年を迎えた東北を代表する名城の弘前城

美しい二重三階の天守が目を見張る弘前城は、隣接する南部氏から津軽地方を守るために築かれた居城である。もともと津軽地方は南部氏の所領であったが、戦国末期、南部氏の家臣であった津軽為信がその支配を嫌い独立。この地を手中に収め弘前藩を開いた。

こうした経緯もあり、津軽氏と南部氏は江戸時代を通じて犬猿の仲となる。この影響を受けて築城された弘前城は、当時4万7千石(のちに10万石)に過ぎなかった弘前藩と思えないほど広大であり、その規模は30万石の大名に匹敵するとさえいわれている。

弘前城の築城を計画したのは初代藩主・津軽為信だが、為信は志半ばにして世を去り、跡目を継いだ2代目藩主。津軽信枚によってわずか1年で完成された。以降、津軽氏によって幕末まで世襲される。

弘前城の構造は典型的な梯郭式縄張となっており、本丸、二の丸、三の丸など7つの曲輪、天守をはじめとする8つの櫓、12の城門を備え、東西約615m、南北約950mに広がっている。石垣は本丸のみで、その他は土塁で築かれているが、城の西を流れる岩木川、東の土淵川が防御の一端を担う。当初は本丸に五重の天守を備えていたが、寛永4年(1627)に落雷によって焼失。文化8年(1811)に、本丸東門の隅にあった二重櫓を改築し、現在の天守が築かれた。なお、当時「武家諸法度」では天守の新築が禁止されていたため、幕府には隅櫓の名目で改築の申請をしたという。

時代の波を見事に読み切り往時の姿を今に伝える弘前城

東北地方の諸藩の多くは、明治維新のさいに旧幕府軍として参戦したため、新政府発足後に懲罰的な意味合いを込めて城が取り壊されてしまう。しかし、弘前藩は新政府軍に協力したため惨事を免れ、往時の姿を数多く残している。

そのなかでも弘前城の見所は、やはり天守だろう。前述したとおり江戸後期に再建されたものであるが、雪国でも割れにくい銅瓦葺きを屋根に用いるなど、他の城内建造物とは雰囲気を異にしている。ほかにも辰巳櫓、未申櫓、丑寅櫓。追手門、南内門、東内門、東門、北門。本丸、二の丸、三の丸、北の丸の堀が往時の姿を留め、天守及び3つの櫓と5つの城門は、いずれも国の重要文化財に指定されている。

弘前城の櫓は「石落としとが作られていないのが特徴で、敵の侵攻を防ぐというよりは、敵の様子をうかがうための物見台としての役割が高かったようだ。

弘前城の見所は四季折々で美しいが、特に春は桜の名所として有名です。

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