島原城

島原城は白亜五層の天守聞から有明海と雲仙岳が一望

元和2年(1616)、有馬直純が日向国延岡藩に転封になり、代わって松倉重政が有馬氏の居城であった日野江城に入城する。しかし日野江城が手狭であると考えた重政は、新しい居城に築城を開始。約7年かけて島原城を築城した。ちなみに重政は築城の名人であり、二見城、唐津城、丸亀城などの縄張をしたことで知られているが、完成した島原城は石高4万3千石でありながら、叩万石の大名の城に匹敵する分不相応な規模であった。島原城築城の費用を得るため、領民から過酷な搾取を重ね、領民の不満はみるみる募っていった。

また、重政は幕府からキリシタン禁教令が出るとルソン島攻略を独自に計画し幕府に上申。向島に家臣を侵入させ、さらには城内に討伐用の武器を備蓄するなど、徹底的に領内のキリシタン弾圧に努め、残忍な拷問や処刑を行ったとの記録も残されている。

重政の子、勝家の悪政ぶりはさらに酷く、人の生死にまで税金を課したという。こうして、度重なる非常識な搾取と異常なまでのキリシタン弾圧が、のちに「島原の乱」を引き起こす原因となったのである。勝家はその責を自らの命をもって負わされることとなり、同時に松倉氏が改易となる。その後城主は譜代大名の高力氏・松平氏・戸田氏と入れ替わり、安永3年(1774)松平忠恕が入封すると、以降は明治7年(1874)の廃城令まで松平家が藩主を務めることとなった。

島原城の城下町に流れる水路は豊富な湧き水を利用

石高に対して不釣り合いな規模の城、だけあって、その造りは目を見張るものがある。自車五重の天守のほかに三重櫓(丑寅櫓・巽櫓・西櫓)が3つも存在する実に豪壮な造りであり、屋上からは有明海と一鉱山邸を一望できる。ちなみに城の縄張は、本丸・二の丸・三の丸が南から北へと一直線に配置されており、本丸と二の丸は深い内堀で固まれ、三の丸はその外にあって、外郭の石垣で取り固まれている。この本丸は廊下橋で二の丸と結ばれ、戦闘時には切り落とされて本丸が完全に孤立できるという仕様であった。

なお、現在の天守はキリシタン資料館となっており、南蛮貿易時代から「島原の乱」までの貴重な資料の数々、さらにはマリア観音や踏絵など、キリシタン迫害の歴史を学ぶことができる。

また「鉄砲町」もしくは「足軽屋敷」と呼ばれる城西側の武家屋敷跡では一部藩士の邸宅が無料公開されているほか、かつて飲用水として利用された小さな水路が残されている。

豊富な湧き水も水奉行が厳重管理

武家屋敷の7つの町筋は碁盤の目のようにできており、ここには扶持取り70石以下の武士の屋敷が690戸あった。町筋の中央を流れる清水は、北西の「熊野神社」を水源とする湧き水であり、かつては飲料水として使われていた。いかにも“水の都”島原らしいエピソードではあるが、当時この水は水奉行を置くほど厳重に管理されていたのだという。なお島原では、現在も湧き水を管理する現代版水奉行が存在している。

島原城の豆知識

島原城はかつて四壁山や森岳などと呼ばれた小高い丘を利用して築かれたので、別名「森岳城」「高来城」 とも呼ばれている。

1960年に西櫓が、1964年には念願だった天守の復元が叶った。その後、1972年には巽櫓も復元。さらに1996年には、雲仙普賢岳噴火災害を紹介する「観光復興館」が開館した。

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