城作りの名人「加藤清正」について知る

築城名人といって真っ先に名前が挙がるのが加藤清正だろう。
尾張の刀鍛冶の子として生まれたが、幼少の頃に父親と死別し、母親の遠縁にあたる羽柴秀吉のもとで小姓を務めながら育つ。

天正11年(1583)の縣″島の戦いの際、賤ヶ岳の七本槍の一人に数えられて頭角を現す。清正が築いた城が熊本城である。日本三大名城に数えられ、一年間に訪れる観光客数でもベストスリーに入る日本を代表する城だ。明治10年(1877)の西南戦争では近代兵器を用いても落城せず、堅固な造りを実証した。

加藤清正が熊本城築城に着手したのは天正16年(1588)、肥後半国を秀吉から与えられて入ってからである。東から南に坪井川と自川が、西には井芹川が流れる茶臼山を城地に選び、坪井川の流れを付け替える大工事を行った。途中文禄・慶長の役によって工事は中断する。朝鮮半島にわたった清正は、現地で蔚山倭城(うるさんわじょう)などを築いている。この時の経験が熊本城に活かされているかも知れない。城は、慶長12年(1607)に完成する。本丸御殿には絢爛豪華な昭君の間が造られた。亡き主君の子豊臣秀頼をこの城に招くために非常に格式の高い部屋を造ったといわれている。

熊本城の特徴は、見事な反りを持つ石垣といえるだろう。その形から扇の勾配とも清正流石垣とも呼ばれる石垣だ。一方、天下普請として参加した名古屋城では率先して石垣を築き、名古屋城天守台には、清正の名が刻まれた石が現在でも残っている。

城造りの中でも土木工事を得意としたことから、江戸城築城の際に子供を集めて遊ばせ、土を踏み固めさせたといわれている。しかし、これは清正死後の工事であった。

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