毘沙門天の三大霊場

奈良県平群町信貴山の朝護孫子寺と鞍馬寺、京都市の毘沙門堂を、昆沙門天の三大霊場という。信貴山は、聖徳太子が物部氏との戦いの勝利を感謝して建てた寺だと伝えられる。毘沙門天が現われて「この仏を信ずべし、貴ぶべし」とお告げを下したので、「信貴山」の名ができたという。

京都の昆沙門堂は、飛鳥時代末にあたる大宝三年(703)に奈良に建てられたといわれている。それが平安京遷都(794年)の際に京都に遷された時に、最澄が彫刻した昆沙門天を本尊とするようになったという。

しかし日本全体でみると、昆沙門天を本尊とする寺院はそれほど多くない。

神仏習合しなかった毘沙門天

仏教は、日本の古くからの信仰である神道と神仏習合することによつて人びとの身近なものになった。奈良時代までの仏教は、朝廷の保護のもとの学問仏教にすぎなかった。

平安時代になって天台宗や真言宗などの密教僧が、「仏は神と同じものである」と説いて仏教をひろく布教し始めた。しかし密教僧が毘沙門天を八幡神などの武芸の神と習合させることはなかった。

これは密教が昆沙門天などの四天王をそれほど重んじなかったことによるのであろう。密教僧は、不動明王が悪を退散させる力を持つ強い仏だと説いていた。仏教界でそれほど人気がなかった昆沙門天は、商工民に福の神とされることによつてはじめてひろく知られるようになったのである。

次章では、本来は毘沙門天よりさらに格の低いものとされ、一部の禅僧だけが好んだ寿老人と福禄寿についてみていこう。これらはもとは、中国の神であった。