松本城は親藩・譜代大名が城主となった城

松本城は、長野県松本平に築かれた平城で、五層の天守を持つ城郭として国宝に指定されている。黒い外観の天守群から烏城(からすじょう)とも呼ばれる。

松本城の前身は、信濃の守護である小笠原氏一族が在城していた深志城である。天文19年(1550)、武田晴信(信玄)は小笠原長時を襲い、奪われた深志城は武田氏によって、東・北信濃への進出の拠点として利用された。武田氏減亡の後、繊田信長の援助を得た木曽義昌が、深志城と城下町を領地とした。本能寺の変後、天正10年(1582)、徳川家康の後援を受けた、小笠原長時の長男・貞慶が故地を回復し、松本城と改称した。

豊臣秀吉の小川原城攻めの後、天正18年(1590)、徳川家康の関東移封に従って、小笠原貞慶の子、秀政は下総に所替えとなった。代わりに松本城に入封したのは、石川数正である。数正と、子の康長は、松本城の大規模な改築に着手し、文禄3年(1594)には天守は完成したとされる。康長はこの後、改易され、小笠原秀政が入封した。実は大天守、乾小天守といった天守の建造年には諸説あり、はっきりと定まってはいない。

その後、城主は戸田康長に変わり、寛永10年(1633)、康長の後に越前大野から入ったのが松平直政(家康の次男である結城秀康の三男)で、大天守に付属する辰巳附櫓、月見櫓などを増築した。松平直政の後は、くるくると城主が替わっていき、戸田氏で明治を迎える。

松本城の見所

松本城の見所①大天守①大天守
高さ29.4メートル。1〜4層は寄棟の屋根、五層目は入母屋屋根で本瓦葺きである。破風は唐破風が2つ、千鳥破風が3っと少ないのも特徴で、装飾を極力省いた実戦を意識した城であることがわかる。
※大天守に関しては下記で詳しく紹介します。

松本城の見所②枡形を作る太鼓門②枡形を作る太鼓門
二の丸の正門にあたる。石垣の凹部を渡櫓が跨ぐ櫓門がーの門で、高麗円である二の門とともに析形を作る。ーの門の北の石垣の上に、太鼓と半銭が設置された太鼓櫓があった。城内への合図を送っていた。

松本城の見所③月見櫓前の牡丹園③月見櫓前の牡丹園
植わっている牡丹の品種のひとつ、小笠原牡丹は、小笠原長時が育てていた株を、戦国時代の戦乱を避けて家臣の久根下氏が保護、今に伝えたもので、昭和35年(1960)、久根下家より寄贈されたもの。

松本城の見所④本丸御殿④本丸御殿跡
書院棟、客座敷練、御居間棟、大広間棟などがあったが、享保12年(1727)の火事で焼失し、今は庭園とされている。

松本城の見所⑤玄蕃石⑤玄蕃石
太鼓門ーの門の石垣にある高さ4メー卜ル、周図7メー卜ルの巨石。石川康長(玄蕃頭)にちなんだ伝承、らその名がついた。

松本城の見所⑥黒門⑥黒門
本丸の正門で、堀に向かって外に突き出た外枡形。一の門は櫓門で、平面がL字の矩折り櫓(かねおりやぐら)である。櫓門は昭和35年(1960)に復元された。

松本城の見所⑦埋橋⑦埋橋
二の丸から埋門にかかる橋なので、この名がある。かつての橋がどのような惰造かわからないまま、わたされた朱塗りの橋。

松本城の見所⑧加藤清正駒つなぎの桜⑧加藤清正駒つなぎの桜
石川康長が天守を完成させた後、加緩清正が祝賀のために訪れたとき、お礼にわたす馬をつないだという桜。

松本城の見所⑨埋門⑨埋門
本丸北西部の石垣を、通路の幅だけ空けて設けた門。石垣に埋もれているようなので、この名がある。

大天守の見所

松本城の見所①①天守閣の眺望天守閣の眺望
天守閣の上からは堀の周囲と松本市街をぐるりと一望できる。晴れた日には西の方向に北アルプス連峰を望むことができる。

松本城の見所①②辰巳附櫓辰巳附櫓
二層二階。天守がマツ、ツガを主な建材としているのに対し、辰巳附櫓と月見槍はヒノキを主な建材としている。

松本城の見所①③乾小天守乾小天守
大天守とは、渡櫓をはさんでつながる。三層四階。破風はないが、最上層には典雅な華頭窓がある。

松本城の見所①④月見櫓月見櫓
一層二階。三方吹き抜けでまったく無防備の櫓で、遊興のための望楼である。

松本城の見所①⑤大天守の天井大天守の天井
南北に2本梁を渡し、そのよに東西に2本梁を井桁に組んで屋根を支える。

松本城の見所①⑥御座所御座所
大天守の四階に城主の居場所が用意されている。書院造りとなっている。

松本城の見所①⑦大天守の階段大天守の階段
大天守の階段は7つある。天守の各層は非常に狭いので、階段はまるで悌子のような勾配で、それぞれの層で異なった位置につけられている。

松本城の観光ガイド

松本城での戦闘を意識した大小天守と遊興が目的の附櫓

松本城には天守群を構えた本丸を、二の丸が、さらにそれらを三の丸が取り囲み防御する輪郭式の縄張を持つ。

本丸南西隅に位置する天守群は、大天守と乾小天守が渡櫓で連結され、さらに大天守には辰巳附櫓、月見櫓の附櫓がつながる、複合連結式という特異な形である。

大天守と乾小天守は、関ヶ原の戦い以前に造営され、いまだ不穏な世相を反映してか、窓をほとんど持たず、長方形の矢狭間と正方形の鉄砲狭間を規則的に配し、大天守の一層には、角のほかに中央にも石落としを備えるなど、戦闘を意識している。それに対して、辰巳附櫓と廻縁と朱塗りの手摺りまで備えた月見櫓は、後に城主となった、松平直政が増築した遊興・宴席のための望楼で、平和な時代背景を反映している。この城は、両者の対比を鑑賞するのが見どころのひとつといえる。

また、鳥城の異名となった外壁は、下見板の黒漆塗りで丁寧に仕上げられていて、厳めしさはあるが、アルプスの山々を背景にすると優美ささえ感じる。

松本城の水堀は豊かな湧き水

松本城は、内堀、外堀、総堀の三重の堀に囲まれているが、内堀と外堀は、本丸の北で一体になっている。 一部を除いて埋め立てられているが、堀はすべて水堀である。城周辺は低湿地で、女鳥羽川、牛伏川、薄川、田川、奈良井川が流れ、湧水に恵まれていて、堀の水は湧水によるものといわれている。

それらの堀に映り込む建物群の姿を楽しむのも松本城の見所で、特に二の丸跡、松本城公園の黒門から見る、北アルプスを背景にした天守群と、内堀に映る像はまさに絶景である。

松本城を守った二人の人物

明治4年(1871)頃から、松本城では門や櫓が壊されはじめた。天守は個人に売却されたが、松本町の副戸長の市川|量造は募金や博覧会を開いて資金を調達し、買い戻した。

明治18年(1885)、県立松本中学校はこの丸に建てられ、本丸が校庭として使われた。初代校長の小林有也は寄付を募り、修繕工事を明治36年から大正2年(1888~ 1913) まで行った。この工事で建物の傾きなどが補修された。

加助の崇りが天守を傾けた

17世紀後半、凶作が続く中、藩は農民に増税を言い渡した。貞享3年(1686) 10月、庄屋の多国加助(嘉助)を代表に農民たちは反対運動に立ち上がった。しかし、加助は捕えられて処刑された。そのとき加助は「一念で天守を傾ける」といったという。その言葉通り天守は傾き、何度も修理を試みたが、すぐに(頃いてしまったそうだ。もちろんこれは伝承で、天守を支えていた柱が老朽化していたのが傾きの原因である。

松本城の豆知識

①松本城の石垣は低いのが特徴で、最高でも天守台の6.6メートル。

②大手門は現在の千鳥橋あたりにあった。枡形があり、大きな櫓門と高麗門で、番所役人が通行を見張った。

③玄蕃石を運んで、いた人夫が不満をもらしたところ、石川康長(玄蕃頭)の耳に入り、康長は人夫の首を捌ねて穂先にさして、ほかの人夫を鼓舞した。このことから、玄蕃という名がついたという伝承がある

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