平和な時代の築城術「軍学」

軍学という言葉は一般に馴染みのない言葉であろう。忠臣蔵で大石内蔵助が打ち鳴らす陣太鼓は、山鹿流陣太鼓である。山鹿流陣太鼓の叩き方は作り事だが、山鹿流とは軍学の流派の一つだ。祖である山鹿素行が赤穂にお預けになっていた期間に、国家老であった大石内蔵助は薫陶を受けたとされる。

軍学は、主に用兵学や戦術を研究する学問であったが、それだけではなく精神論的なものを含んでいた。江戸時代には大名らの教養として広く学ばれるようになり、各大名たちは軍学者を召し抱えていた。

軍学の中には、築城術、攻城戦、城を守る方法なども含まれている。そのため軍学者は様々な城の縄張図を収集し、分析した。そして理想の縄張を作り出した。弟子の大名にも描かせ、これを添削した絵図が残されている。軍学が盛んになった頃には、 一国一城令により、新しい城を造ることは困難で、実践で活かせることはまずなかった。

軍学による築城としては、甲州流の近藤正純による赤穂城、長沼流の市川一学による松前城(福山城)が有名である。赤穂城は純粋な甲州流の城とはいいがたい。築城の頃、山鹿素行が朱子学を非難して赤穂にお預けになった。高名な素行先生が赤穂にいるのだからと、素行の意見を所々取り入れたため、甲州流プラス山鹿流という二つの流派の特徴が取り入れられた城となった。

軍学では曲線が尊ばれたため、赤穂城には屈曲する塁線が多用されている。ただし、元々の地形や城下町などの条件もあって、理想どおりの城は実際には造れなかったようだ。

軍学による縄張は、平和な時代に机上で論じられるだけの学で、実戦では通用しなかった。それを証明したのは、松前城である。

日本の軍学による最後の築城となった松前城は、海から攻撃してくる敵を想定して造られた。海に面した大手側は強固な構えであったが、反対の山側は、攻められることを考えられておらず、守りが甘かった。そのため箱館戦争の際、わずかな兵を率いた土方歳三に、あっという間に落とされてしまった。

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