伊賀上野城

伊賀上野城は関ヶ原直前に大改修され徳川方の「切っ先」となる

天正13年(1585)、大和郡山城(奈良県)より転封された筒井定次により築かれた伊賀上野城は、豊臣秀頼と徳川家康の決戦が日前に迫る、慶長13年(1608)に入封した藤堂高虎の手により大改築を受ける。家康は大阪城に拠る秀頼方への備えとして利用すべく、高虎に命じ徹底的な改修改築を命じたのである。この大改修により城地は約3倍の面積に拡張され、また内堀、高石垣も整備され、五重の天守も建てられた。

しかし、この五重の天守は完成直後に即取り壊されたとも、完成寸前に暴風雨により倒壊したとも伝えられ、いずれにせよ、その後伊賀上野城に天守が建てられることはなかった。現在残る三重の天守は、昭和10年(1935)に建設されたものである。

築城名人・藤堂高虎の手による伊賀上野城の特徴は、日本一2尚さを持つともいわれる高石垣である。本丸西の内堀から、約30メートルの高さに積まれた一局石垣は、現在もその姿を悠々と保っている。

伊賀上野城の歴史:対豊臣の最前線だけに豊臣家滅亡後は放置

幻となった「五重の天守」に代表されるように、伊賀上野城は未完成部分が多い城としても知られている。本丸西側こそ固められたが、その城域を取り囲む外堀や土塁はところどころで途切れ、本丸すら無防備となる部分もあった。城普請自体が豊臣氏が滅んだ元和元年(1615)で中止され、以後は手付かず。あくまでも対豊臣のための城であり、備える相手が滅んだことで、城としての役目も終わったということだろう。

伊賀上野城の豆知識

現在の伊賀上野城内には、再建された天守、事実上の本丸として機能した城代屋敷跡、松尾芭蕉を祀る俳聖殿が残る。天守は藤堂家の資料館として利用されており、城代屋敷跡は発掘調査が行われている。

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