大分府内城

大分府内城は整備された城下町が大分市の基礎になる

慶長2年(1597)、福原直高により着工され、2年後に完成を迎えた。築城当初は「荷落(交易)」の場所に城地を定めたことから「荷落城」と呼ばれることになっていたが、落ちるでは縁起が悪いということで、「荷揚城」に改められた。その後、直高に代わって城主となった竹中重利により「府内城」に再度呼び名が変更される。

海に接した立地から「白雄城」とも呼ばれ、寛保3年(1743)に城下で起こった大火で天守閣をはじめ城の施設が多く焼失した。本丸跡北西隅に二重の人質櫓と西の丸に宗門櫓が現存し、大分県の史蹟に指定されている。

僅か1ヵ月で改易

築城が終わって1ヵ月経った慶長5年(1600)5月、福原直高は突如領地の没収をいい渡される。かつて豊臣秀吉の側近の1人であった直高は、石田三成の妹婿でもある。秀吉の死とともに、三成の失脚が、直高の人生を大きく変えたのである。

大分府内城の豆知識

大分府内域は戦時中には空襲で櫓数棟が焼失したが、昭和40年(1965)に東の丸着到櫓、二重櫓、西丸二重櫓、大手門が、平成8年(1996)に西丸と山里曲輸を結ぶ廊下橋がそれぞれ復元されている。

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