海野女神の悪霊退治

神奈川県藤沢市の江の島にある江島神社は、江島弁天、江島明神とも呼ばれた神仏習合の神社であった。そこは岩本院、上ノ坊、下ノ坊の三カ所の別当(神社の運営にあたる社僧)によって経営されてきた。

明治初年の神仏分離によつて、現在の江島神社は、宗像三神を祭る神社になっている。

古くは近くの漁民の集団が、風景の美しい江の島で海の神を祭っていたのであろう。そのあと文覚上人が平安時代末に、そこを弁財天を祭る神社にした。江の島には、このような伝説が伝わっている。

「昔は江の島という島はなく、海に住む悪龍がさまざまな乱暴をして人びとを苦しめていた。ある時に大地震が起きて、江の島が作られた。

この時弁財天が天から江の島に舞い降りて来て、悪龍を従えた。彼女は、この時悪龍にこう言った。

『あなたが殺生を止めて人びとの守護神になるなら、私はあなたの妻になります』悪龍はこの言葉によつて、弁財天に従って土地の守り神になった」この話はのちに江島神社の社僧がつくったものであろう。近くの人が祭っていた海の神を龍にして、文覚が勧請した弁財天が龍を従えた形をとつて社僧が江の島の神を祭ることを正当化したのである。

関東から広まる弁財天信仰

江の島の弁財天は、室町時代に福の神としてひろく信仰されることになった。これは『金光明最勝王経』の弁財天が財運をもたらすとする教えにもとづくものである。

江戸時代に入ると、下ノ坊と岩本院の社僧が関東の各地を巡り江島神社の御利益を説いてまわった。そのため多くの庶民が江の島に参詣するようになった。江戸の町人にとつて一泊の江の島詣では楽しい行楽の旅であった。

七福神信仰の多くは京都を中心とする上方から広がったものだが、江島神社の布教によつて弁財天信仰だけは関東を中心に繁栄する形をとつた。