鳥取城

鳥取城は多くの餓死者を出した悲惨な篭城戦の舞台

標高263mの久松山に建つことから「久松城」とも呼ばれる鳥取城は、天文凶年(1545)に殴勝守護・山名誠匙が築いた出城がはじまりといわれる。その後、山名氏の一族によって城は引き継がれるが、天正9年(1581)、城主の山名豊田が豊臣秀吉に降伏しようとしたため家臣の手で追放。代わって助けを求められた、毛利氏の家臣・吉川経家が入城する。

経家は鳥取城を整備強化して秀吉の軍勢に備えるが、徹底した兵糧攻めに遭い、およそ100日の寵城戦の末に城を明け渡した。この戦いが世にいう「鳥取の渇殺し」で、鳥取城に立てこもった兵たちは、仲間の死体を食べて飢えをしのいだと伝えられている。

「関ヶ原の戦い」後には池田長吉が入り、久松山の山麓に近世城郭を築城する。さらに池田光政がこれに続き、幕末まで池田氏の居城となる。

城は山頂にある中世の山城と、山麓の近世城郭が同居する珍しい遺構である。山頂の本丸には二重天守が築かれていたが、江戸時代中期に焼失し再建はされなかった。山麓部に残されていた石垣は鳥取大地震で崩壊し、現在復元が進められている。

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