大黒様の姿

『塵塚物語』は、大黒天の信仰は天文、永禄年間(1532―1570)に急速に京都に広まったと記している。京都で戦国時代の戦乱が続く中で、将来に不安を持った庶民が福の神に救いを求めたのであろう。かれらは、「戦火で家を焼かれても、金さえ蓄えていれば何とかなる」と考えていたのではあるまいか。京都に大黒天信仰が広がった時期に、私たちのよく知る大黒様の姿が作られた。

大黒様は温和な表情をして、老人が用いる大黒頭巾をかぶり、恵比寿様と同じ狩衣を着用している。そして左手で宝物の袋を、右手で人びとに幸福を授ける打出の小槌を持ち、米俵を踏まえる。この米俵は、「誰もが飢えることのない国を作ってあげよう」と人びとに語るものであった。

大黒舞の芸人の活躍

戦国時代の京都の町では、正月などの祝い事の時に大黒舞を舞って歩く旅芸人の姿が多く見られた。かれらは大黒様の姿をして、次の歌に合わせて舞った。

「一に俵ふまえて、二ににつこり笑うて、三に酒つくりて、四つ世の中良いように、五ついつもの如くに、六つ無病息災に、七つ何事もないように、八つ屋敷広めて、九つ小倉を建て並べ、十でとうと治まる御世こそめでたけれ」戦国動乱の不安の中で、庶民たちは大黒舞を見て、「苦しい時には、明るく笑って、将来長者(金持ち)になる夢を見よう」と考えた。恵比寿信仰は西宮神社の布教によつて広められたが、大黒天信仰は京都の庶民がすすんで受け入れて各地に伝えていったものである。

京都に大黒天信仰が広まった時期の終わり頃(1568年)に、織田信長が入京した。このあと信長の支配のもとでしだいに戦乱がおさまり、京都は織田信長、豊臣秀吉の政権下に好況を迎えることになる。