蛭子命が航海の神に
西宮の夷の神社も、三郎の神社も、古くは漁民の小さな集落の氏神であったと考えられる。この夷を祭る神社と三郎を祭る神社が合併したうえに、周囲の小さな海の神の神社も吸収して西宮神社になり、しだいに有力になっていったとみられる。

この新たな神社は、最後には現在の西宮市を中心とする大阪湾沿岸の比較的広い範囲の漁民の集団の氏神とされたのであろう。つまり個々に神社を設けていた十数個の漁民の集落がまとまつて、 一つの神社を祭るようになったのである。

これと共に西宮神社は、大阪湾沿岸を航行する商人からも、航海安全の神として祭られるようになっていった。■の瀧戯の日宋貿易の振興で、日本に大量の宋銭(中国の宋朝の銅銭)が輸入されたことが、流通拡大を促した。宋銭という信頼のおける貨幣が普及したために鎌倉時代に商業が急速に発展した。農村を巡る行商人がしきりに活躍した。さらに、船を用いて九州や瀬戸内海沿岸と京都の間の大掛かりな取引を行なう商人も、現われた。

このような長距離の交易に従事する有力な商人が、大阪湾沿岸の航路の安全を祈って西宮神社に参拝するようになったのである。現在、西宮神社では一月九、十、十一日に賑やかな十日戎の祭礼が開かれている。この祭りは、西宮神社が遠方の商人の参詣者を集めるようになった鎌倉時代に始まったものだ。

日明貿易と大坂の繁栄

室町幕府のもとで、日本と中国の明朝との公式の貿易が始められた。これを日明貿易という。日明貿易の担い手となったのは、博多と堺の商人であった。日明貿易で豊かになった堺の貿易商は、航海の神である西宮神社にさまざまな支援をした。堺は戦国時代に最盛期を迎えるが、江戸時代には大坂が堺に取って代わった。江戸幕府が大坂を直轄領にして、そこを全国の商業の中心地とする政策をとつたためであ2つ。

これによって諸藩の余った米や特産品が全国から大坂に集められ、そこから各地に売られるようになった。米、生糸、絹織物などの大規模な取引で成長した大坂の豪商は、西宮神社を福の神の一つと考えてしばしば参詣した。

江戸時代の大坂の商家では、 一月十日の十日戎の日や毎月十日の恵比寿請の日に恵比寿様の像が抱えている鯛を食べる習慣が作られて広まった。大坂
の町の繁栄によって、恵比寿信仰が大きく発展したのである。