七福を授ける神、仏教が七福とする幸運をもたらす七柱の神が選ばれて七福神になったとする説明もある。室町時代に密教僧や修験者(山伏)が祈濤の中で用いた、「七難即滅、七福即生(七つの難を消して七つの福を授けたまえごという句がある。この句にもとづいて、七福神がつくられたというのである。

古代の日本の知識人も中国の知識人も、「七」という数字を好んだ。「七」は完結した数字で、物事は七日、七月、七年を単位に循環するともいわれた。

現在の暦に用いられる日曜から土曜までの七曜は、古代バビロニア(現在のイラクのあたりにあつた国)の天文学で用いられたものである。これが西洋に広まり、インド経由で中国に入ってきた。天台宗や真言宗の学問僧が行なった占術にも、七曜が用いられている。

日本でも主だったものを七つ集めて、「七××」と呼んだ例が多くみられる。東大寺、興福寺などから成る南都七大寺や、東海道、東山道などの七道はその例である

竹林の七賢が七福神に

中国の文人は、竹林の七賢を好み竹林の七賢の姿を描いた絵画を多く残した。七賢とは中国の魏朝末から西晋朝はじめ(三世紀後半)に活躍した知識人で、道教の老荘思想に従って世俗を避けて静かな竹林の中で高尚な話にふけつた人びとである。室町時代の禅僧の間で、中国の明代の水墨画(墨一色で描いた絵)を手本に竹林七賢図を描くのが流行していた。こういった中で、瑣春という禅僧が七賢図をまねて、七柱の神の姿を描いた「七福神図」を作り出した。

これが評判になって、七福神の絵が広まっていったという。瑣春の「七福神図」は善光寺(長野市)の宝物とされていたが、文明五年(一四七三)の火事で焼失したと伝えられている。

歴史学者の喜田貞吉は、竹林七賢図の広まりと七福を授ける神を祭る商人の信仰とが結びついて、七福神ができたとする説を昭和初年に出している。