鍾馗・猩々・吉祥天女も七福神だった

七福神の顔ぶれが現在のような形になるのは、江戸時代なかば以後のことである。それ以前には鍾馗(しょうき)、猩々(しょうじょう)、吉祥天女(きっしょうてんにょ)を加えた七福神もみられた。

瑣春の七福神図には、弁財天の代わりに臼女命(うすめのみこと)(天鈿女命(あまのうずめのみこと))が入っている。秋月という僧侶が室町時代の延徳年間(1489―91年)に描いた福の神の絵には、鍾馗が見える。鍾馗は中国の唐代に実在した、玄宗皇帝の夢の中に現われて魔を払って皇帝の病気をなおしたと伝えられる人物である。
かれは中国でのちに魔除けの神として祭られ、五月人形となって日本人にも愛された。

江戸時代はじめに摩訶阿頼矢(まかあらや)という筆名の文人(本名は不明)が書いた『日本七福神伝』には、寿老人がなく吉祥天が七福神の中の一柱とされている。吉祥天は古代インドの幸運と美の女神が仏教に取り入れられてできた仏で、古くから日本人に好まれた。奈良の薬師寺には天平文化の代表作の一つで奈良時代に描かれた美しい吉祥天の画像が伝わっている。

江戸時代はじめにあたる延宝八年(1680)に書かれた『合類節用集』という辞書にも、寿老人はなく、その代わりに猩々が入っている。猩々は中国の想像上の神獣である。この神は酒を好み、人びとに親孝行を説くという。

歴史学者の故喜田貞吉氏は狂言に現在のような七福神がみられるというが、狂言作品の数が多いのでこのことは確認できなかった。江戸時代なかばすぎにあたる寛政11年(1799)頃に記された山本時亮『七福神考』には現在のような七福神が揃っている。鍾馗や吉祥天、猩々を入れた七福神には寿老人が見られない。江戸時代なかばになってようやく寿老人が七福神となり現在のような七福神の顔ぶれが定着するのである。

日本の神様を集めた七福神

純粋な日本の伝統を重んじた江戸時代の国学者(日本の古典を研究する学者)の中には、さまざまな国の神様が混じり合った七福神に反発する者もいた。

増穂残口(ますほざんこう)という国学者が、元文二年(1737)に『七福神伝記』という著述を発表している。その中で増穂は、大己貴尊(おおなむちのみこと)(大国主命)、事代主命(ことしろぬしのみこと)(恵比寿様)、厳島大明神(市杵嶋姫命)、天穂日命、高良大明神(武内宿爾)、鹿島大明神(武甕槌命(たけみかづちのみこと))、猿田彦大神を七福神としている。いずれも『古事記』や『日本書紀』に出てくる日本の神である。

市杵嶋姫命は素戔嗚尊(すさのおのみこと)の子神で、天穂日命は出雲大社の神職を務める出雲氏の祖先神である。武内宿爾は古代の有力豪族、蘇我氏や葛城氏の祖先神で、武甕槌命は高天原(空の上の神々が住む世界)から地上に降って大国主命を従えた神で武芸の神とされる。猿田彦は、皇室の祖先を地上に案内した神で、道祖神として祭られている。

増穂は福を授ける日本の神を祭るように人びとに説いたが、国産の七福神は庶民には広まらなかった。