夷の神と三郎の神
これまでに記したように、福の神としての恵比寿信仰は、まず蛭子命を祭る西宮神社によって広められ、そののちに事代主神を祭る恵比寿信仰が作られたと考えられる。前に記したように西宮の夷神と二郎神とは別の物であったが、この二柱の神が結びつけられて夷三郎という名前の神になり、日本神話の水蛭子と結びつけられた。

そのため西宮では、「蛭子」と書いて、「えびす」とも「ひるこ」とも訓む。そして水蛭子(蛭子命)は淡路島から西宮に流れついたといわれた。

「伊失諾尊と伊美再尊に葦船に乗せられた。海に流された蛭児は、摂津国西の浜(西宮)の海岸に漂着した。この時土地の人びとが蛭子命を拾って、夷三郎殿と呼んで大事に育てた。夷二郎殿が、人びとに福を授ける戎大神である」というのである。淡路島とその近くの西宮の間の船を用いた交易が日常的に行なわれる中で、恵比寿様が淡路島から来たという話が生まれたのだろう。それは民話に多くみられる、親から見放された子がのちに立派な大人に成長するという貴種流離謂の形をとっていた。

西宮神社の発展

室町時代に書かれた『神道集』の中に、伊失諾尊と伊美再尊の夫婦が、この世の主を儲けようとして一女三男を産んだという記事がある。 一女が蛭児尊(蛭子命)で、三男が太陽の神の天照大神、月の神である月読尊、素妻鳴尊だというのである。

これは西宮から淡路島に伝わった、西宮恵比寿関連の伝説をもとに記された記述だと考えられている。

また江戸時代の西宮神社の主張の一つに、このようなものがある。「西宮神社の祭神は、日の神、月の神の次に生まれた神として夷三郎と名付けられた」恵比寿様が西宮で皇室の祖先神である天照大神に近い地位の神であると称えられていたありさまがわかる。

西宮神社は、もとは広田神社の摂社であった。しかし室町時代には西宮神社の名が広まり、本社である広田神社の名を覆い隠してしまうほどになった。

応永20年(1411)に天皇の代理として広田神社参拝を行なった神祗伯(朝廷の祭祀を統轄する官職)の資忠王は、この時資忠王は西宮神社に参ったのちに広田神社に赴いた。永正11年(1504)に広田神社に参った神祗伯忠富王も西宮神社、広田神社の順に参拝している。